最涯珠洲を語る

#04 芸術祭コミュニケーションディレクター 福田敏也

#04 芸術祭コミュニケーションディレクター 福田敏也

2017.07.01

福田敏也/Toshiya Fukuda

福田敏也/Toshiya Fukuda

福田敏也/Toshiya Fukuda
1959年東京赤坂生まれ。1982年国際基督教大学卒業。東京在住。
広告コミュニケーションを足場としながら、企業ブランディングから、サービス、事業コンサルまで、さまざまな領域のコミュニケーション設計を考える仕事をしている。大阪芸術大学教授であり、博報堂のCCTOであり、FabCafeというものづくりカフェのFounderでもある。

都会に暮らす自分の心にも無意識に刻まれてきた
身近な神様との向き合いや信仰。
日々の暮らしの中で薄れかけてたそういうものたちの記憶が
パッカーン、パッカーンって開いていく。

なぜ、珠洲なんだろう?

最初に珠洲を訪れたのは、芸術祭のお手伝いをすることが決まった2015年の秋です。お手伝いすることが決まってから、数ヶ月後というタイミングでした。越後妻有や瀬戸内で芸術祭を成功させてきた北川フラムさんにとって「なぜ奥能登珠洲なんだろう」ということがとても気になっていました。福田が最初に芸術祭のお手伝いをしたのが越後妻有の2回目(十数年前)だったこともあり、それから芸術祭を取り巻く環境がどう変わってきたかも知りたいところでした。

珠洲はとても不思議な場所でした。海があり、山があり、自然の恵みがあり。ずっと昔から続いてきた暮らしがあり、文化があり、伝統があり、工芸があり。さらには、日本海に突き出した半島の先っちょという特別な地理的環境にあり、海に囲まれた岬の独特の景色があり、日本海交易が盛んだった時代のユニークな歴史的背景もあり。いろんな素敵がありすぎて一言ではあらわしにくい。北川フラムさんが「特異点」という言葉であらわした意味がよくわかりました。

珠洲に何度か訪れた方が面白いことをおっしゃったんです。「珠洲には何度か行ったけど、あーこれ食べたあ!ってものを食べた記憶がないのよね。」なるほど!って思いました。実は自分も近しい思いを感じていたんです。それってなんだろう。海の幸も山の幸もいろいろあって、きっと豊かな食生活が珠洲の日常にはあって、でも、都会の人には美味しいものを食べたという記憶が残りにくくて。。。たぶん珠洲の豊かさは地元の日常の中に自然に存在していて、都会人向けに商品化されていない。都会人向けにわかりやすくセットアップされたものになっていないんですね。だから、都会の人が訪れても、その良さが残りにくい。

都会人のために祭りをやってるわけじゃない

珠洲といえばやっぱりキリコ祭り。やっぱりそれはすごいし、素晴らしい。地区単位でそれぞれ独自に発展継承されている様も面白い。でも同時に面白いって感じるのは、その祭りが観光客のためにやってる感がまったく感じられないこと。いろんな地方のお祭りを見てきたけど、どこも観光資源としてのあり方がかなり重視されていて、神事としての意味や地域伝統儀式としての意味が薄れてきてる。でも、キリコ祭りは、誰のためでもない、自分たちや自分たちの地区のためにやってるし、先祖代々受け継いできた伝統や神様とのつながりに誇りを持って守ってる。次世代を担う子供たちも、やらされてる感ってなくて、みんなプライドを持って太鼓叩いてるし笛吹いてるし、獅子舞してる。

近代化ってなんだっけ?

近代化とか都市化の流れって、あらゆるものをマジョリティが消費しやすい形に変えていく流れだし、均一化していく流れなんですよね。基本的に。都会人的に定型化した枠組みやスタイルやルールにはめていくことで、みんなが安全に安心に楽しめるものに変えていくプロセス。もちろんその良さもあるけど、逆に都会人が食べやすいものに変えていく結果、みんなが同じものになっていっちゃう。

珠洲の祭りを見て感動する理由の真ん中に、都会都合で最適化されちゃってないもの。自分の遺伝子にも存在している身近な神様の存在。みたいなものがある、と思う。宗教を聞かれても、特に特定宗教はありませんって答えるけど、良くないことをしちゃうと「神様ごめんなさい」って心の中でつぶやいている自分、いるじゃないですか。宗教はないって言いながら、自分の行動を強く律している神様に懺悔している文化って独特ですよね、僕たち。そうしたことたちや感覚を思い出させてくれるんですよね、珠洲は。その意味で僕たち都会人は、珠洲が残してくれたものに感謝しながら、その分け前をいただきに来る。そんな感じかもしれないですね。

北川フラムさんが伝えたいこと、残したいもの

僕は北川フラムさんじゃないから、フラムさんが残したいものの本質は正確にわかりません。でも、奥能登珠洲に初めて行ってから感じ、考えてきたことに間違いはないと思ってます。珠洲が人気のない街だから芸術祭っていう時代コンテンツを呼んでくるわけではなく、奥能登珠洲に都会人が忘れちゃいけない固有価値が生きているから、芸術っていう翻訳装置を用意して、感度高いアーチストたちに価値の表現解釈をさせてアートを通じて伝える。その意味では、その価値や意味がわかってくれる人たちがどれだけその気づきに反応してくれるのかが重要だし、時間はかかってもその流れでファンをつくっていかなければいけないんだと思うんです。

Globalism vs. Localism

いろんなところで、GlobalismとLocalismの戦いが語られてる。
Globalismが進んだ結果としてのLocalismの台頭、衝突。でも、別にその2つは対決するものでも、二者択一を迫るものでもないはず。Globalのステージに上がったら、結局、「あなたにしかできないことなんですか」とか「あなたの固有価値は何ですか」って問われる流れが必ずやってくるわけで。どちらも大事なんだと思います。今は、過渡期的時期にあって、次の時代への良きバランスと着地が模索されてるんだと思う。芸術祭はその中で、日本のローカルの固有価値を再認識させる装置であり、それによって日本の固有価値が維持されていく流れをつくるものなんだと思います。

広告系クリエーターも試されてる

広告系クリエーターの運動神経って、一定の予算で一定の時期にバーーンって目立って、集客して、はい、さよなら!って感じが得意だったり。もちろん今は、長いスパンのコミュニケーションも組み立てられる時代になってますけど、基本はそう。だから芸術祭のコミュニケーションを考えよって言われるとすごく悩むわけです。短期的に目立って短期的に集客しても、それがその地域の本当の価値を伝えることにつながったのか不明だし、持続可能な流れが生まれたかどうかもわからないから。広告も本来はグローバリズム的マス文脈で肥大してきた産業なので、その本筋は、そのままでは芸術祭的なコミュニケーションには機能しないかもしれないんです。だから、すごくドキドキします。すごく緊張します。ひとつひとつ話を丁寧に聞いて確かめながら、地道に前進している感じです。そうした地味で地道な積み重ねの先に、リアルなファンを育てていくことがあると信じてやってます。

Q.珠洲に「忘れ去られた日本」があるとするとそれは何ですか?

やおよろずの神様が日常に存在している感じ。教義とか経典とかないのに、美学やルールや考え方が自然に共有されている感じ。

Q.珠洲のおすすめスポットを教えてください。

禄剛埼灯台(※)。
狼煙地区にある灯台。海に突き出した独特の地形に立ってて、日の出も日没も拝むことができる特別な場所。船が海外への唯一の交通手段だった時代、この岬に立つたくさんの若者が、海の向こうを見つめながら大陸への夢を語ったんだろうなあ、って想像される場所です。
※禄剛埼灯台
日本の灯台50選にも選ばれる美しい灯台。その歴史的文化的価値の高さから保存灯台にも指定されている。付近は国定公園に指定された風光明媚なロケーション。
(所在)石川県珠洲市狼煙町
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